三河のそよ風
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我が故郷の足跡

3.第3の故郷 東三河

三河湾に面し気候温和なところ

湘南鵠沼から引越し東三河の地で結婚するまで過ごした

ここでも数回の転居した


豊川市伊奈町
(平成22年豊川市と合併、小坂井町伊奈は消滅)

伊奈城跡近く父の実家に その後市内数か所に転居

ここも海岸から程近く、少し歩けば磯のかおりが漂ってくる

三葉葵発祥の地]で地元では有名 全国 区では無名

当時、小学校の校章も「葵」、でもこの学校で卒業まで過ごせなかった
小坂井西小学校校歌も格調高く 有名な田村虎蔵先生の作曲でしたが変わってしまいました。
♪史跡に顕著伊奈の里 葵が池辺の、、、、、三つ葉葵の校訓を、、、、

注: 田村虎蔵作曲の童謡、、、一寸法師、きんたろう、だいこくさま、青葉の笛、うらしまたろう、他


三葉葵発祥
の伊奈城跡公園 

豊川市伊奈町 (宝飯郡小坂井町伊奈)

伊奈城跡   通称城山

伊奈城 花が池公園   三葉葵発祥の池

 

現在、城山と池は新幹線の線路で分断されている

 
三葉葵発祥の由来

  徳川家康の祖父松平清康(岡崎城主)が亨禄二年(1529)吉田城(豊橋市)攻めの折、当時の伊奈城主本多正忠は松平清康と共に参戦、城を攻め落とした。

本多正忠は松平清康を伊奈城に招いて凱旋、酒宴を催し城内の花が池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出した。

  清康は大そう喜び、「立ち葵は正忠の家の紋なり、この度の戦いに、正忠最初に御方参 て、勝軍しつ、吉例なり、賜らんと仰ありて、これより御家紋とはなされたり」 (藩翰譜・新井白石編)

この記述を裏付けるように、岡崎市の随念寺に残されている清康の肖像画には、「立葵の紋」が描かれている。

 このように、本多家から松平家の家紋となった「立葵の紋」が、徳川家康の代に「三つ葉葵の紋」となったと伝えられている。
                                出典引用 参考: 小坂井町史                                                        
何故三州三河伊奈城主本多家の家紋が立葵か

  二葉葵は京都加茂神社の社紋で加茂神社の「葵祭り」が有名です。
本多家の先祖中務光秀が京都加茂神社の社職であったことから立葵を本多家の家紋にしたと伝えられている。


 追記(2010.3.3)
 徳川家康関東移封にともない8代本多康俊も下総小篠(現在の千葉県匝瑳市八日市場小笹)九十九里浜近くに移り伊奈城は廃城となった。伊奈城の城下の地名が伊奈市場、移封地も八日市場で市場の地名、偶然か。

余談 銅鐸発見
大正13年、この伊奈城から程近い場所(当時の小坂井町伊奈字松間)から銅鐸3基が出土された。その銅鐸は東京国立博物館で展示保存されています。


追記(2017.1.16)
お松見(しょうけん) 本多家の元隠居屋敷、本多家墓所が伊奈城の近くにあり父の実家代々の墓もお松見のところにあります。

  



隣り町の旧小坂井町からお稲荷さんのお膝元の豊川市内に転居、ここが東三河最後の地

ここを流れているのが一級河川の豊川(とよがわ)市名が豊川市(とよかわし)と紛らわしい

 終戦間近まで東洋一の海軍工廠(公称6万名)があったがB29の爆撃 で壊滅、女子挺身隊、動員学徒含め2500名以上の尊い命が犠牲になった。その当時私ども家族はまだ湘南だった。

 その工廠跡地に今では自衛隊駐屯地、大手企業が数多く進出しているが以前、黒澤監督の「悪 い奴ほど良く眠る」や石原裕次郎主演の[黒部の太陽]のトンネル掘削のロケも行なわれ、破砕帯出水 場面では大量の水が出すぎ実際に多数の出演者(裕次郎も)が怪我をして豊川の市民病院へ運ばれた。


豊川稲荷

京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷と共に日本三大稲荷、東京赤坂に豊川稲荷の分閣があります。

正式名称 曹洞宗 山号円福山 豊川閣妙厳寺 1441年室町時代開祖 本山は永平寺

2020.11.28追記
 永平寺の管首(住職)が令和2年9月に交代 第79世 福山諦法(絶学諦法 慈航玄徳禅師)1932生れ 元は豊川稲荷住職、方丈様でした。昔、高校教師の伯父が教え子である福山諦法と関わりがあり、私も知り合いの知り合い?
    






  豊川稲荷は、妙厳寺の境内に鎮 守として祀られた「豊川叱枳尼真天」(だきにしんてん)の通称です。

  本尊は千手観世音菩薩でその鎮守として豊川叱枳尼真天を祀っています。 叱枳尼眞天は、仏法守護の善神で元々インドの神で狐にまた がった事から 狐の精霊として信仰され祀られている。

  本殿には叱枳尼真天、法堂には千手観世音菩薩が祀ってあります。

 ご祈祷に点心(精進料理が振る舞われます)〇〇円以上 家族で祈祷される場合は人数分     

合掌 お参りはお寺ですので柏手は打たないでね






霊狐塚

信者から奉納された狐像が圧巻





               豊川いなり公式HP 


豊川稲荷の方丈様(住職)が永平寺の
貫首になられた                     


豊川市 御油 

               ドイツ人医師ベルツ博士、花子夫人ゆかりの地

         (花夫人は(ハナ はな 花 花子)どれがほんとうか?自身の日記では花子) 


ベルツ博士について
 ドイツ人 ベルツ博士は明治政府の招請で明治9年に来日、東京大学医 学部の前身、東京医学校で教鞭をとった、そのとき、「はな」と出会い結婚。  東京大学医学部付属病院の近くにベルツ博士の像があります。

花子夫人について(以下花と記述)
 花は元治元年江戸 神田明神下の生まれ、父熊吉(新井家に養子)の実家が御油の旧家旅籠戸田屋)で上野戦争(戊辰戦争)のとき三州吉田(現在の豊橋市魚町)の親戚(父方祖父の妹、山口家に嫁ぐ)に7歳まで一時疎開。その隣は父の弟が弘文堂の養子に入った。

戸田家由来
 御油戸田家は岡崎、矢作の浄瑠璃伝説で有名な姫の親、兼高(公家)末裔の出 ハナさん自身が語っていたが資料が見つからず真偽は不明。

戸田屋 先代1781年天明元年 太郎太夫飛行実験
 江戸時代末期戸田屋、花の祖父代が発明好きで世間では変人奇人扱い、三輪の木製の車(今の自転車のもと)を作り豊川稲荷に参拝、また人力羽ばたき飛行機を作り高い所から飛んで怪我、また滑空飛行機(グライダー)を作り自ら操縦しかなりの距離飛んで骨折などの怪我をした。 

 ライト兄弟の飛行機よりかなり前の時代でもし成功していたら、、、、、
言い伝えの記録によると鶴の羽ばたき人力飛行では100間、滑空飛行では350間、または100m、350mとあるがどちらが正しいか、後の記述ではメートルになっているので尺貫法の間が正解かも、
でも人力でこれほど飛べたか不明です。

。時代が早過ぎた。戸田家ゆかりの家(豊橋魚町弘文堂)に遺物があったらしいが建て替えなどで処分されて物は現存していないようです。弘文堂文具店は現在も営業

 前記でも述べたが戸田家は花の父方祖父の代が趣味の発明好きで散財、その後一家4人は離散した。

御油戸田家の長女が碧海郡上郷村桝塚(現豊田市桝塚)の男性と結婚し戸田家を継いだ。
その後豊橋に転居した。関東大震災の折、花さんは豊橋の戸田家にお世話になった。


出典原本 Web版 佐奈川文庫大島先生   豊川市医師会史編算資料第4章 ベルツ花子関係年譜 
hananenpu.pdf

                        2013.4.12加筆修正
                        2015.9.5加筆修正

 
ベルツ博士の功績
 

  草津に私財でクワハウスを創り世界に草津 温泉を 紹介、当時の女性の手荒れ(あかぎれ)等に効くベルツ水を考案。明治天皇 の侍医など、大学で医学を教 え、日本医学のため多大な貢献をした。

花夫人は(ハナ はな 花 花子)どれがほんとうか?自身の日記では花子 

2004/1/29

豊川市 御油の西明寺

博士の死後花夫人は日本に帰り、戸田家の菩提寺である西明寺にベルツ博士の供養塔を建てた

ドイツ人医師ベルツ博士、花子夫人 ゆかりの寺



写真はベルツ博士と家族の墓碑





西明寺 水原 秋桜子句碑 
東京大学構内にもあります

 「菊にほふ国に大医の名をとどむ」

 ベルツ博士家族の墓碑と供養塔の真中にこの碑がある

ベルツ.花が建てたベルツ博士の供養塔

 ベルツ博士供養塔が句碑の右側に建っている

供養塔には何故か旧姓「戸田 花」建立とある
花さんの父は荒井家に養子、その子が花
ベルツ博士と結婚後はベルツ花と名乗


ベルツ博士の祖国ドイツから贈られた菩提樹

  西明寺を訪れた孫娘ゲルヒルト・トーマ夫人とビーティヒハイム市の市長から菩提樹が贈られ本堂前に植えられた。

2004/9/23

西明寺山門

 寺紋は三葉葵 ここから姫街道追分辻に出られる。




西明寺参道入り口道標
 西明寺まで3丁の道標

 豊川市八幡町 姫街道沿い (国道1号線追分交差点近く)

 東三河最古の芭蕉句碑もここにあります。

2004/4/12


ベルツ.花さん関係の著書

西明寺本堂横に花、 ベルツへの旅」の紹介パンフレットがガラス戸に貼ってあった。

平成8年真寿美・シュミット= 村木 花・ベルツへの旅      講談社、発刊  (左の写真)

 その他

 S47 鹿島卯女  ベルツ.花

 S52 *小川京子 潔く気高く美しくベルツ花

 S54 綾部伴子 ベルツ花子 控えめで聡明な外人妻

 *小川京子 クーデンホーフ光子の生涯の語りかけるもの

2004/1/29

 

 ベルツ.花子夫人 余聞 

 「欧州大戦当時之独逸」の原稿、関東大震災で焼失
12月 岩屋観音(豊橋市)の岩場に鉄の鎖を寄進。さらに、この鎖が悪くなったら取替えるようにと、50年据え置きの信託預金100円も寄進。その後昭和天皇がこの鎖を利用されで岩屋観音を訪れた。
参照文献 佐奈川文庫web版



豊川市 旧東海道、御油
(ごゆ)の松並木

 慶長九年から11年かけて植えられた 天然記念物で御油から赤坂(旧宝飯郡音羽町)関川までおよそ 600メートル続いています。


  その赤坂関川神社入り口に芭蕉句碑があります。となりに 昔ながらの八百屋さんがあるので直ぐ判ります。

御油宿には「ハル、ベルツ夫人」の実家跡があります。

  交通手段 東名高速 音羽蒲郡インターチェンジから国道一号線経由で5〜10分、電車は名鉄本 線「御油」「名電赤坂」下車で徒歩2.5キロ間を散策

  健脚向きには「国府(こう)」下車、追分(姫街道入り口)から歩かれてはいかが、松並木資料館もあります。

御油、赤坂駅は普通電車のみ停車、国府駅は急行、一部特急停車します。
                          2004/4



豊川市 赤坂宿 大橋屋
旧東海道 赤坂宿の旅籠、大橋屋がついに360年続いた営業に
幕を閉じる。

豊川市が買い上げ、数年後耐震改修などをして一般公開するそうです。

ウィキペディア 赤坂宿 
歌川広重の東海道五十三次に大橋屋が描かれています
    2015/3

2017.1リンク
旅籠大橋屋営業再開 宿泊 食事有り 火曜日定休日



牛久保の壁書
 (豊川市牛久保公民館)         2004/3/21

  「常在戦場米100俵」で有名な越後長岡藩の 牧野の殿様がここ三州三河牛久保城の出身。

  三河以来の家風を伝える「牛久保の壁書18ヶ条」があり、そのなかに「常在戦場」の四字がある。

こ の付近の地図


牛久保のうなごうじ祭り

  その昔、牛久保城主の牧野氏が領民にお城で振る舞い酒し、領民が喜んで帰宅途中に酔っ払って道端にゴロゴロする様がいつのまにか祭りになった。(県無形文 化財)

  道路でゴロゴロ寝転がり起こし役が起こしに来るまでそのまま寝転がる珍しいお祭。


武田信玄の名軍師、山本勘助の墓

豊川市牛久保町 長谷寺(ちょうこくじ)


 

八名郡加茂村(現豊橋市)生まれ その後豊川牛久保へ  (案内板より) 生まれは諸説あります。

街中のこじんまりしたお寺の裏手にひっりたたずんでいる。

                2007/2/10更新

                  2007/2/1撮影




 

2007年NHK大河ドラマ 風林火山

山本勘助を中心にドラマが繰り広げられる
大河ドラマ内野聖陽さんらが訪れた

 以前、俳優の三船敏郎さんや萬屋(中村)錦之助さんがお参りに訪れた。    


2007/2/2撮影



今川義元の墓所(胴塚)

豊川市牛久保町大聖寺


永録三年五月十九日
  桶狭間の合戦で討ち死、首をとられ家臣が胴体を背負って当地まで逃れこの寺に葬った。 案内板略


   このお寺の入り口の狭い路地に今川さんの表札
偶然?

毎年命日には地元の方々により慰霊祭が執りおこなわれているそうです。

JR牛久保駅近大聖寺の境内
                     2007/2/10更新


こ の付近の地図


一色刑部の墓   今川義元の墓の手前左にあります


 追記 2010.3.4

牛久保のナギ
国指定天然記念物 昭和13年12月14日指定
豊川市下長山町 熊野神社
 熊野神社の森にそびえるこのナギの木は、 高さ約20メートル目通り3.5メートルの巨木で樹齢約400年以上と推定されています。
 ナギは本州南部、四国、九州、琉球、台湾の山中に自生する植物で、豊川市のように暖帯の北限に近い地域では、このように大木なることはまれです。
 別名「ベンケイナカセ」と呼ばれるように、葉は細長く平行脈があり、簡単にはちぎれません。
 ナギの木は雌雄異株であり、このナギは雄株です。
 線路の北側の熊野神社正面右手にあるナギの木は雌株で秋になると青藍色の実を結びます。

豊川市教育委員会案内板より
2008.6撮影

 

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